寿司は中国から伝わった? 中国人の反応「なぜ寿司を発明しなかったのか。日本の寿司は二種類とも中国から伝わった」

中国の質問サイト「知乎」に、2016年3月から115万回以上読まれている質問がある。「なぜ中国人は寿司を発明しなかったのか」。質問者は、餃子も麺も粥もある中国に、寿司の形をした食べものだけが見当たらないのが不思議でならない、と書く。回答は284件。

最多賛同の回答は、問いの前提をひっくり返した。「日本の寿司は、二種類とも中国から伝わったものだ」。古典の原文を確かめ、9年後の数字で答え合わせをした。

元投稿

質問:中国人为什么没有发明出寿司?
(なぜ中国人は寿司を発明しなかったのか)
知乎/2016年3月19日/フォロワー1,416・閲覧1,156,896回・回答284件
→ https://www.zhihu.com/question/41557280

中国有包子饺子馄饨等一系列面皮里裹陷的东西,也有汤面拌面,米饭泡饭,粥,煎饼等等…总之我感觉一切其他国家食物的形式中国基本都有(如意面和炒面相似,披萨和煎饼相似)但是却唯独没有发明出寿司这种形式的食物是为什么呢?

中国には、包子・餃子・ワンタンも、汁そばも和え麺も、粥も煎餅もある。他の国の食べものの形は、たいてい中国にもあると思う(パスタと炒麺は似ているし、ピザと煎餅は似ている)。それなのに、寿司という形の食べものだけは発明されなかった。それはなぜなのか。質問者は「八宝飯やちまきは数に入らない」と条件をつける。

最多賛同の回答「先に『そうなのか』を問え。それから『なぜ』だ」

回答者:檀信介(フォロワー約10.7万)
投稿日:2017年5月24日
賛同3,708(最多)
→ 回答ページ

先问是不是,再问为什么。我很负责责任地告诉你,日本两种寿司都是由中国传入的。

先に「そうなのか」を問い、それから「なぜ」を問え。責任をもって言うが、日本の寿司は二種類とも中国から伝わったものだ。

日本寿司总地来说分两大类,用新鲜鱼虾佐以醋饭的「早鮨」,和用发酵鱼肉制成的「慣れ鮨」。前者在古汉语中叫「脍」,后者古汉语叫「鲊」。无论是哪一种,日本岛上的弥生人还没学会种稻子的时候,我们的祖先就已经在吃了。

日本の寿司は大きく二つに分かれる。新鮮な魚介に酢飯を添えた「早鮨」と、魚を発酵させた「慣れ鮨」だ。前者は古い中国語で「脍」、後者は「鲊」という。どちらも、日本列島の弥生人が稲作を覚える前から、私たちの祖先は食べていた。

回答は、まず「脍」(生魚の薄切り)から並べる。『論語』『礼記』に出る古い食べもので、唐代に流行し、遣唐使で日本に伝わったと説く。

広東省順徳の魚生。薄く切った魚と野菜を盛る
回答者が「順徳魚生」の例として載せた写真(出典:知乎の回答(檀信介))

次が「鲊」(塩と米で漬けた発酵魚)だ。回答は『説文解字』の「鲊は藏魚なり」、『漢書』にある漢の昭帝が蛟を鲊にさせた話、明代の小説『金瓶梅』で主人公の西門慶が食べる「木樨銀魚鲊」を挙げ、決め手として北魏の『斉民要術』を出す。

北魏的百科书《齐民要术》详细地记载了鱼鲊的做法,鲤鱼切片,撒盐,压去水,摊瓮中,加饭与配料于其上,一层鱼,一层饭,一层鱼……然后封闭发酵。这就是鱼生配饭最早的文字记载,也是早期日本寿司的做法。

北魏の百科全書『斉民要術』には、鯉の鲊の作り方が詳しく書かれている。鯉を切って塩をふり、水を絞り、甕に広げて飯と薬味をのせる。魚を一層、飯を一層と重ね、密封して発酵させる。これが「魚と飯を合わせる」最初の文字記録であり、初期の日本の寿司の作り方でもある。南北朝のころには、日本でいう「寿司」はもう中国にあった、ということだ。

为了模仿传统发酵寿司的口感,江户前寿司的发明者们在白米中大量加入醋,让米饭假装自己已经被发酵过了,然后再把假装已经发酵过的米饭和鱼虾捏在一起,假装发酵寿司。

いま流行している江戸前寿司は、江戸末期になって発酵寿司から発展したものにすぎない。伝統的な発酵寿司の口当たりをまねるため、考案者たちは白米にたっぷり酢を加えた。米に「もう発酵しました」という顔をさせ、その米と魚介を握り合わせて、発酵寿司の「ふり」をした。握り寿司はもともと、座って食べる暇のない江戸の下層の人々のための、路上の屋台の食べものだった、と回答者は言う。

江戸の町の寿司屋台を描いた浮世絵の一部
回答者が屋台の話のあとに載せた浮世絵(画題・作者は回答に記載なし。出典:知乎の回答(檀信介))

別の回答「白米が来たとき、中国にはもう炒め物があった」

回答者:李大奶
投稿日:2017年5月20日
賛同1,424
→ 回答ページ

古典を並べる檀信介とは逆から攻める。中国人が精白米を食べるころには、白米に合わせるおかずがすでに山ほどあった、という見立てだ。

因为寿司最早起源的室町时代,也就是我国的明代。彼时我国的市民都在忙着榨油。想配米饭的时候炒个菜不就行了吗。

寿司が生まれた室町時代は、中国では明の時代だ。そのころ庶民は油搾りに忙しかった。ご飯に合わせたいなら、炒め物を作ればいいではないか。

別の回答「寿司はもともと軍糧だ。中国は軍糧まで工夫した」

回答者:富富最可爱
投稿日:2017年5月21日
賛同309
→ 回答ページ

冒頭で「中国に寿司はある。日本の寿司は現代の改良品だ」と言い切るこの回答は、寿司は戦国時代に流行した軍糧だったと語る。戦乱の続く日本では「持ち運べて、日持ちする軍糧」が大名の最優先課題で、酢飯がそれに合った。対する中国の軍糧は、秦の粟から諸葛亮の饅頭まで、はるかに豊富だった、と続ける。

要记住,每一种流行食物的出现,都是和大环境息息相关,就像欧洲流行的黑面包,并不是欧洲人喜欢吃这玩意,而是只能吃这玩意。

流行する食べものは、大きな環境と深くかかわっている。ヨーロッパで黒パンが流行ったのは、好きだったからではなく、それしか食べられなかったからだ。

裏取り

確認できたこと

古典の原文は、回答のとおりに実在する。『論語』郷党に「食不厭精,膾不厭細」(維基文庫)、『礼記』内則に「膾,春用葱,秋用芥」(維基文庫)。ただし、この「芥」は辛子菜の類で、山葵ではない(回答者も注記している)。

「鲊」が塩と米で魚を発酵させた食べものだった、というのも原典で確かめられる。『説文解字』は、鮓の古い字の鮺を「藏魚なり」と説き(説文解字)、後漢末の『釈名』は「塩と米でこれを醸し、熟して食べる」と書く(維基文庫)。

『斉民要術』の記述は、回答の要約より具体的だった。「作魚鮓」の章に、炊いた米飯(糁)を混ぜ、「一行魚,一行糁」と魚と飯を一行ずつ重ねて詰める工程があり、「白浆出,味酸,便熟」(白い汁が出て酸っぱくなれば熟れている)という見分け方まである(斉民要術)。魚と飯を重ねて発酵させる作り方は、6世紀の中国に確かにあった。

なれずしが大陸と地続きの食べものだというのも、日本側の資料と一致する。食文化研究者の石毛直道らは、なれずしの起源を東南アジア内陸から中国南部にかけての地域に求めた(Cambridge Core・nippon.com英語版)。日本の最古級の記録は、718年の『養老令』にある鰒鮓・貽貝鮓だ(ウィキペディア)。

「炒め物が先に広まっていた」という李大奶の指摘も、合っている。炒めは南北朝のころに確立し、『斉民要術』にも「炒鶏子法」がある(澎湃新聞)。同じ本が、鲊と炒め物の両方を載せているのだ。

違ったこと

『漢書』にある昭帝の鲊、という出典は違った。白い蛟を釣って鲊にさせた話は、東晋の王嘉が書いた志怪の書『拾遺記』の、元鳳二年(紀元前79年)の条にある(維基文庫・昭帝の年号)。怪異譚で、寿司の証拠にはなりにくい。

「弥生人が稲作を覚える前から」は、成り立たない。弥生時代は水田稲作が始まった時代で、なれずしは稲作とともに大陸から伝わったとされる(nippon.com英語版)。

「早鮨は脍だ」も混同だ。「脍」は魚の薄切りで、飯を伴わない。酢飯の寿司は日本の江戸時代の発明で、1728年の『料理網目調味抄』に箱寿司へ酢を注ぐ記述が出る(ウィキペディア)。回答者自身が後段で「酢で発酵したふり」と書いており、前段と食い違っている。

「明治中後期に寿司は高級になった」も、ずれている。与兵衛らは、贅沢を理由に天保の改革で摘発されている(ウィキペディア)。高級な寿司は、明治より前にあった。

富富最可爱の説明にも、誤りがある。実際の鮒ずしは、塩漬けの鮒に塩を混ぜた飯を詰めて乳酸発酵させる。「魚と酒粕と塩」ではない(ウィキペディア)。「干瓢巻」の具も、キュウリや大根ではなく、夕顔の実を干した干瓢だ(ウィキペディア)。

確かめられなかったこと

王維や白居易の詩句、『睡虎地秦簡』の穀倉の記録、「福建の漁師が飯と酢を持ち歩いた」という話は、資料に行き着けなかった。

9年後の答え合わせ

「中国に寿司がない」という質問の前提は、もう通用しない。農水省の調査で、中国の日本食レストランは2015年7月に約2万3,100店だった(nippon.com)。2023年は約7万8,760店、2025年は6万3,500店(香港・マカオを除く)と、1万5,260店減った(農水省・農水省)。農水省は減少を「中国における経済停滞の影響等」と説明する(農水省)。2015年の集計は香港などの扱いが不明で、単純には比べられない。

寿司チェーンは、中国式に値段を下げて伸びている。回転寿司の「寿司郎」(スシロー)は、2025年春に中国内地で50店に達した。客単価は89〜147元(約2,100〜3,500円)ほどで、8元(約190円)のフォアグラ寿司のような特売で行列をつくる(経済観察網)。「はま寿司」も2024年末に87店になった(21世紀経済報道)。

一方で、値段の高い店は退いた。「KURA寿司」は2025年6月、中国内地から段階的に撤退すると発表した。2年間の累計赤字は約8,190万元(約1億9,300万円)だった(澎湃新聞)。

そして、なれずしは中国から消えたのではなかった。貴州の侗族の「腌魚」は、糯米飯を詰めた鯉を木桶に一層ずつ重ね、5〜6か月発酵させる(百度百科)。『斉民要術』の「一行魚,一行糁」と、ほとんど同じ作り方だ。

日本側のデータ

日本の寿司の歴史と、いまの数字

なれずし(最古級の記録)718年『養老令』に鰒鮓・貽貝鮓
生成(飯も食べる)室町時代(『蜷川親元日記』に語)
早ずし(酢の使用)1728年『料理網目調味抄』に箱寿司へ酢
握り寿司1820年代の江戸。華屋与兵衛が1824年ごろ開店
回転寿司の市場(2024年)8,318億円(前年比6.2%増・4,270店)
海外の日本食レストラン(2025年)約18万1,000店(中国 6万3,500店)

出典:ウィキペディア・nippon.com・みなと新聞(富士経済調べ)・農水省

日本視点

「寿司は日本の発明だ」と思う日本人には、檀信介の答えは痛い。だが原典を開くと、魚と飯を重ねて発酵させる料理は、6世紀の中国に確かにあった。答えの芯は当たっている。ただし、東南アジア内陸から中国南部にかけての地続きの食べもので、「起源は中国」と言い切れる資料は見つからない。

一方、いまの寿司を「中国の寿司」と呼ぶのもずれている。日本が加えたのは二つの工夫だ。室町時代に、捨てていた飯も食べるようになったこと。江戸時代に、発酵の代わりに酢を使ったこと。これで寿司は「保存食」から「すぐ食べる料理」に変わった(ミツカン)。

日本人が気づきにくいのは、字のほうだろう。寿司屋の湯呑みに書かれた「鮨」は、中国では魚醤(魚の塩辛のような調味料)を指す字だった。『説文解字』は鮨を「魚の䏽醬なり。蜀中に出る」と説く(説文解字)。

どこが当たっていて、どこがずれているか

  • 当たっている:魚と飯を重ねて発酵させる鲊は6世紀の『斉民要術』にあり、握り寿司は江戸の屋台から広まり、炒め物は寿司より早く中国で広まっていた。
  • 違った:昭帝の鲊は『漢書』ではなく『拾遺記』。「弥生人が稲作を知る前から」は成り立たず、酢飯の寿司は中国由来ではない。鮒ずしに酒粕は使わず、寿司の記録は室町時代でなく奈良時代まで遡る。
  • 変わった:中国の日本食レストランは2万3,100店から6万3,500店へ。ただし2023年の7万8,760店からは1万5,260店減った。

日本人にとっての学びはこうだ。中国人は「なぜ発明しなかったのか」と問うが、古典を開くと、中国にも寿司の祖先の鲊はあった。日本の寿司は「中国から来た」でも「日本の発明」でもなく、大陸の発酵魚を、飯を食べ、酢で早く仕上げる方向に変えてきた工夫の積み重ねだ。

関連書籍

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まとめ

  • 知乎で115万回以上読まれた質問。最多賛同(3,708)の回答は「日本の寿司は二種類とも中国から伝わった」と答えた
  • 『斉民要術』の魚と飯を重ねる発酵は原文で確かめられた。だが昭帝の鲊は『拾遺記』の怪異譚で、酢飯の寿司は江戸の日本で生まれたもの
  • 9年後、中国の日本食レストランは2万3,100店から6万3,500店へ。寿司チェーンが増える一方、値段の高い店は撤退した

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